似ているから、嬉しい。違うから、楽しい。
「似ているから、嬉しい。違うから、楽しい。」
就活時に、どこかの企業のキャッチフレーズとして見つけた言葉である。
学生の時は、せいぜい2-3歳違いの先輩後輩で固まっていたのに対し、社会に出てからは、否応にも20,30歳違う先輩や国籍、バックグランドが全く異なる人々と一緒に私は大半の時間を過ごすようになった。戸惑いと不安に飲み込まれそうになった私を、就活を終えた後でも、この言葉が支え続けてくれた。
社会人1年目の時は、アフリカ担当となって、現地のローカルのお客さんとのやり取りで四苦八苦していた。
エチオピアでは、一日の日付変更線、いゆわる「24時」が、朝の6時であると聞いた時にはとても衝撃を受けた。更に、彼らが日常で使用しているエチオピア歴では、1年に13か月有り、西暦とは7年9か月のずれがある。つまり、本日2016年は、エチオピア歴ではまだ2009年である。なんとまぁ、ややこしい。書類のやり取りでは、いつも冷や冷やとさせられる珍事件ばかりで、よく脂汗をかいていた。
そうこうしている内に年月が経ち、桜咲く季節をいくつも超えた。
いつまでも若い気分で入るけれども、25歳を過ぎたら女の子ではなくなるし、最近ではリクルートスーツを着た大学生を見かけると、ずいぶん遠い世界のように感じるようになった。
そんな中、久しぶりに、心躍る出来事に遭遇した。
昨日の夜中に、電話をしていたとき。
5歳年下のその友人の受話器の向こう側では、いつも複数人の楽しそうな笑い声が聞こえていた。
「テレビ?ラジオ?お笑い番組かなんか流しているの?」
ふと、尋ねてみると、TVでもラジオでもなく、YouTube見ているらしい。
「そうか…この人は、毎晩、YoutubeをTV感覚で見ているのか。」
私は感心した。
そして友人は、今、私とLINE電話している正にそのスマートフォンを用いて、Youtube映像を流していることに気付いた。
そう、スマートフォンは今では若い世代の中では、当たり前のように、TV電波も電話回線も代用してしまっているのだ。
スマートフォンは社会を変えたデバイスだと主張する記事は幾度も目にしてきてけれども、昨日は初めて肌感覚でスマートフォンが起こす社会変化を実感し、身を震わせた。
「みく、一緒にこの映像を見よう。いっせーのせっで、一緒に再生しよう!」
電話口の向こうでは、そんな風に思いを巡らす私をそっちのけに、無邪気な友人の声が聞こえる。なんと、斬新で、ちょっと胸きゅんする提案なんだ。
しかし、何度いっせーのせっを試しても、アナログ世代の私は何故か上手くいかない。何度やり直してもどうしても1,2秒のずれが生じ、スピーカー越しの音声と自らのスマートフォンから流れる音声はぴったりと重ならない。少し遅れて聞こえるノイズに似た音声が、正に私と友人の間に流れる感覚の違いのように感じた。
たった5年、されど5年。
似ているようで、少し違う。
嬉しくて、楽しくて、温かい。
おすすめされたゲーム実況たるものを一緒に見てみたものの、1ミクロンとも面白さを理解できなかったことも、また大きな衝撃であった。
これが、いゆわるジェネレーションギャップなのだろうか…。
彼と私のように、私たちは皆ひとりひとり、同じ世界を生きていても、見ている世界や感じる価値が少しずつずれていて、五線譜のように、ゆるやかに平行を描きながら、互いに寄り添って生きているのだろう。
似ているように感じても、五感を研ぎ澄ませば、自分では気付かなかった、見えなかった少し角度の違う世界が目の前に広がっているのかもしれない。いつだって目の前の人が、自分の世界を立体的に広げてくれていたのだ。
スマートフォンからは、2秒遅れた効果音と、全く面白くない大げさなギャグが聞こえる。
受話器からは、友人の笑い声が聞こえる。
彼や周りの人たちが描いてくれた五線譜の上を、今日も私は愛しさに満ちた音色を立てながら、軽やかに踊っている。