未来日記

未来日記

いつも鬱々としていた丸の内OLの日誌。人生をポジティブに変えていくのは、自分の行動次第。

過去と他人と自分は変えられない。でも、未来は変えられる。

先週、9年ぶりに会う友人と飲んだ。
 
 
久しぶりすぎる再会に、待ち合わせまではドキドキしたけれども、実際に顔を合わせると二人を隔てていた時間や空間が瞬く間に消えていった。
 
心の奥底にしまっていた思い出がポップコーンのようにポンポンと飛び出し、くだらない話に花が咲き乱れた。

 
そして、10年間同じガラケーを使い続けてきたという彼が、サプライズお土産にと、画像フォルダーの奥底から、ある写真を送ってくれた。18歳の大学1年生の頃、所属していたマジックサークルの発表会の後、初恋のA君と一緒に写っている一枚だった。
 

余りもの懐かしさに、口に含んだマリブオレンジを噴出した。

 
心の奥にある引き出しがまた、ひとつ開いていく...。

 

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18歳当時、予想以上に受験生活が長引いたAくんを横目に、私は呑気にエレベーター式に大学へ入学し、典型的な大学生活に明け暮れていた。入学後、迷わずに手品サークルへ入部したのも、ジャグリングが趣味だったAくんの気を引きたかったから。彼が発表会に来てくれたように高校時代から2年ほど仲良くしていたが、晴れてAくんが受験を終える頃には、超新星爆発程の大喧嘩を引き起こし(9割方私の有責)、音信不通になってしまった。
 

「Aくんは、今どうしているの?」
 

写真を凝視しながら、恐る恐る聞いてみた。

「それが、誰も連絡がつかないんだ。」
 

Aくんと同じ大学に在籍していた彼は、気まずそうにウーロン茶をすすった。
 

「超難関の海外大学院まで進んだことは知っているけれども、辞めてしまったらしく、その後はどの友人も連絡がつかない状態なんだ。」
 

人一倍努力家で、プライドが高くて、他人に弱みを見せることが苦手なAくん。高校時代に、部活でキャプテンを務めていた時も、練習をさぼりがちな後輩を直接注意することが出来ずに、「背中で見せることで、相手自身に気付かせる」という地味な戦略の元、一人黙々と更に練習に打ち込んだ。受験勉強が長引いた時も、周りの友人との連絡をすべて絶って、孤軍奮闘していたAくん。「エースをねらえ」をバイブルとして、昭和のスポ根を地でいくように、いつも自分を追い込んでは高みを目指し、決して諦めたりしなかった。

 


そして9年たった今、再び人生の挫折に面した彼は、大学受験の頃と同じように、またもや今まで積み重ねてきたすべてのモノ(人脈、実績等)を一旦リセットして、0からやり直そうとしている。なんと、Aくんらしい行動なんだ…。彼は全く変わっていないなと、思わず息をのんだ。
 

翻って、わたし自身はどうだろう?9年間で何か変わったのだろうか。
そう思って、再び、写真に目を戻した。

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Aくんの前にいた、感情むき出しで、人間ブルドーザーよろしく突っ走っていたわたしはもういない。(さぞかし迷惑であっただろう)18歳の頃のように感情の赴くままに奇行/狂言を発することは少なくなったが、それは「理性」と「友人からの忠言」をミルフィーユ状に何段も積み重ねて、自身の衝動的な暴走を抑えることが昔と比べて少しばかり上手くなっただけのことだ。 

当時と比べて、体重も13キロ落ちた。これも、強靭な精神力を身につけたわけではなく、ネットサーフィンという過食以外のストレスのはけ口を見つけたから。
 

つまり、私の本質は何も変わっていない。
 

周りを頼れずに、自分で抱え込んでしまうAくんを見て、どうしてそんなに、苦しい生き方をしているのだろう?もっと楽に、器用に生きたらいいのにと、当時は何度も疑問にも思っていた。でも、これが、彼の美学であり、生き方であり、本質なんだと、9年間の年月を越えて、改めて深く納得した。
 

今年、たくさんの時間を一緒に過ごした人から「他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる」と、耳タコができるほど聞かされた。
 

でも、本当は、自分ですらも、変えることはとても難しい。

 
皆、「自分くらいは変えられるはず。変えなければいない」と過信するから、苦しくなる。

 
頑固で、プライドが高い自分。
時には自信に満ち溢れ、時にはコンプレックスに振り回される面倒くさい自分。
傷つけられたことには敏感なのに、他人の痛みには鈍感になってしまい自己嫌悪に陥る自分。
 

数十年間積み重ねてきたちっぽけだけど強靭な自我を、意志の力で変えることは、不可能に近い。

 
でも、自分は変えられなくても、自分の扱い方を知ることは出来る。
 

9年間を経て、向かう方向性も夢もないわたしのままだけれども、自身の得意/不得意は少しずつ分かるようになってきた。
 

相変わらず、外見コンプレックスは強い。でも、自分に似合うメイクや服装を知ることで、自分が自分で良かったと思える頻度を増やすことが出来た。
 

ついつい他人と比べたり、羨んだり悲しくなる癖も相変わらずだ。でも、要所要所で諦めがつくようになり、その分生きやすくなった。

 
自分の扱いがうまくなったら、目の前の問題をひとつひとつ紐解くことができるようになる。
そして、目の前の問題が解決できれば、未来は変わる。
 

だから、過去と他人と自分は変えられない。でも、未来は変えられる。

 
Aくんも、きっと、わたしの知らないどこかで、不器用ながらも真っすぐに、一筋縄に行かない「自分」と格闘しているのだろう。そして、持ち前の愚直さを活かして、また不死鳥のように野心を燃やしながら、立ち上がっていくのだろう。
 

人生でたくさんの時間を共有し、近くで笑った彼は、今はどこにいるのかも知りえないほど遠い存在になってしまった。
 
そう考えると、どうしても、心がきゅんと痛くなる。やっぱり、いくつになっても、切ない気持ちは苦手だ。

でも、どうせ心から離れないのであれば、悲しみや寂しさではなく、愛と祈りをおくろう。いつまでも、どこにいても、幸せでいてくれますように、と。
 

きっとこれが、わたしが9年間かけて培ってきた、賞味期限切れの恋心に対する一番マシな取扱方法なのだろう。