「選ばれない」痛みは、いつも鋭く胸を刺す。
今日、とある社内選考の面接を受けた。
面識がない面接官2人を前に、膝を震わせながら思いを伝えた15分。
キリキリとした緊張感漂う空間の中で、限られた時間と相手の反応を伺いながら、自分という人間を語る。信念を語る。夢を語る。
終了の合図がして、お辞儀をした後に席を立つと、少しの安堵と、思いを100%伝えられなかった後悔と、結果に対する恐怖心でズーンと心が沈む。
私の話は、相手にどれくらい伝わったのだろうか。
選ばれなかったら、どうしよう。
アテが外れたら、またイチから人生構想を立て直さないと…。
就職活動の時に感じた感触を久しぶりに思い出した午後だった。
志望企業の選考に落ちることは、片想いの相手に振られて失恋する感覚ととても似ている。
想いを伝えられずに散る恋は切ないものだが、伝えて玉砕した悲しみは、また違った種類の後味の悪さを残す。
だって、私という人間を精一杯伝えて、貴方(貴社)をどれだけ好きなのかという想いを伝え、欲しいポジション(入社/恋人)もガラ空き絶賛募集中であるにも関わらず、お断りってどういうこと…!!
タイミングが悪かった、相性の問題だというけど、そんなの結局綺麗事で、
「君は要らない」
そうやって、存在を否定されることと何が違うのだろう。
選考結果が出るまでの2週間。
私は、久しぶりにこの「自分は選ばれないんじゃないか」という怖さと同居するだろう。
頭ではわかっている。
選ばれなくても、私の価値を、存在をすべて否定されるわけではないことを。
何かを失うわけではないことを。
理想としては、自分の人生の方向性をしっかり持って、「自分は選ばれる立場ではなく、選ぶ立場だ。今回がだめでも、また幾らでもチャンスはある」と心を強く持つことが出来れば、ひとつひとつの選ばれない事象に過度に怯えることはなくなるだろう。でも、私は今までの人生で積み上げてきた実績もなければ、礎となる人生方針も未だに固まっていない。ダメダメな弱い自分のままだ。
ひとつひとつの挑戦に、自分の人生を変えてくれるのではないかという、過度な現実逃避的な願望を抱いているからこそ、一喜一憂するのだろう。
大きな期待をかけて何かにチャレンジした分だけ、失敗して悲しみを追うリスクも抱えることになる。
幾つになっても、情けないほど痛みに敏感で、選ばれないことにビクビクする格好悪い自分がいる。
だから、
せめて私は懲りもせずに、
恋しいと思った相手に、受け取ってくれるかも分からない愛を差し出し続けたい。
目の前に舞い降りた心躍るチャンスに、身の程知らずに手を伸ばし続けたい。
幼い日に見た青臭い夢に向かって、人に笑われながらも走り続けたい。
強い自分に、今すぐなれないけれども、歩みを続けることは、自分の意思をもって選択し続けることができる。
弱い自分を励ましながら、一歩一歩、前に進もう。