愛することとは、考え抜いて行動すること。
愛することってなんだろうと、昔から、節目節目に思いを巡らせ続けきた。
すこし前までは、「自分のリソースを積極的に捧げること」だと考えていて、それはお金だったり、労力だったり、時間だったり。
でも、愛がなくても一緒にダラダラいることは可能だと気付いてから、考えがまた修正された。
誰かを愛することとは、「考え抜くこと」+「行動すること」だと思う。
「考え抜くこと」とはすなわち、相手が本当に欲しているものは何か、どうしたら相手が幸せに近づくのかを徹底的に考え抜くこと。ここで、自分の主観やエゴが入って方向性を誤ると、極端な例でいうとストーカーやセクハラといった、自分が良かれと思っているけれども、相手にとっては至極迷惑な方向に舵を切ってしまう。
次に「行動すること」とは、考え抜いた結果をもとに、アクションを取ること。これは、何かを与えることかもしれないし、伝えることかもしれない。それは、幾ら考え抜いても、自分の胸に秘めておくだけであれば、愛は存在するかもしれないけど、「愛する」という行為には繋がらないからだ。
「こんなことをしたら、喜んでくれるだろうな、幸せに貢献できるかもしれないな」とどんなに自分なりに考え抜いたとしても、本当に当たるかなんて、やっぱりやってみないと分からない。だから、愛する人への行動は、通常とても勇気を必要とする。
ギョっとされたり、すべったり、拒否されたり、痛い人だと笑われたりと、様々な心理的障壁を乗り越えて、リスクを取って行動すること。
それで、ようやく「愛すること」の一連のプロセスが完成するのだ。
そして、「行動する」の中でも、もっとも難易度が高く、高度なことが「相手の人生から、自分が退場すること」だ。考え抜いた結果、相手の幸福度に自分は何も寄与することが出来ない、全くプラスの効果をもたらす見込みがない、もはやどんなアクションですらもマイナス効果の方が大きいだろうという事実に気付いてしまった場合、胸を切り刻む痛みを味わうだろう。
愛する人に何かを差し出したり、リソースを分け与えることは、相手の感謝や愛情を対価として受け取れる可能性が有るため、意外と簡単だ。でも、相手の人生から立ち去ること、これは何の対価もない上に、寂しく、辛い決断である。
だから、せめて、そんな辛い決意が出来たとき、
遠くで見守る愛を選択できる強さを持てたとき、
それは本当の意味で、誰かをしっかりと愛せたのだなと自分を誇ってよいのだと思う。
縁があれば、また交わり合える時が来ることを信じて。